FISH FOOD TIMES Back No.
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平成28年 12月号
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平成28年 11月号
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平成28年 11月号
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平成28年 9月号
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平成28年 8月号
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平成28年 7月号
No.151-2 アカエイ料理
平成28年 7月号
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平成28年 6月号
No.150-2 アユの姿鮨
平成28年 6月号
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平成28年 5月号
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平成28年 4月号
No.148-2 ミンク鯨赤身の刺身&にぎり鮨
平成28年 4月号
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平成28年 3月号
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平成28年 2月号
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平成28年 1月号
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平成28年1月号
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平成27年12月号
No.144-2 ボラの洗い造り
平成27年12月号
No.143 海を隔てた魚食の違い
平成27年11月号
No.143-2 海を隔てた魚食の違い
平成27年11月号
No.142 マイワシづくし(刺身&にぎり鮨)
平成27年10月号
No.141 ヒラマサ切身姿売り
(平成27年9月号)
No.140 グルクマ刺身平造り
(平成27年8月号)
No.139 トコブシ刺身盛合わせ
(平成27年7月号)
No.138 活アイゴ平造り
(平成27年6月号)
No.137 マナガツオ炙り平造り(平成27年5月号)
No.136 ハマダイ骨付き頭付き切身(平成27年4月)
No.135 サヨリ姿造り・にぎり鮨・酢の物(平成27年3月)
No.134 真鯛にぎり鮨(平成27年2月号)
No.133 生魚対面裸売りの勧め(平成27年1月号)
No.132 イラの刺身(平成26年12月号)
No.131 ロブスター刺身姿造り(平成26年11月号)
No.130 真サバ炙り平造り(平成26年10月号)
No.129 紅鮭ステーキ(平成26年9月号)
128 コイの洗い(平成26年8月号)
127 旬線刺身盛合わせ(平成26年7月号)
126 エツ刺身姿造り(平成26年6月号)
125 メバル薄造り(平成26年5月号)
124 旬のアマダイの鮨と刺身(平成26年4月号)
123 本マグロづくし刺身盛合わせ(平成26年3月号)
122 寒メジナにぎり鮨(平成26年2月号)
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平成29年 1月号 157

fish for food

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魚職不朽


魚に関係する人は必読の名著

魚に関係する職場で働く読者の皆さんを勇気づける名著「魚と日本人」(食と職の経済学)岩波新書版 北海学園大学経済学部教授 濱田武士著が昨年10月に刊行された。

筆者は発売されて間もない11月にこの本を読んで、これは魚に関係して働いている人々には是非読んで欲しい本だと感じ、このたびFISH FOOD TIMESでその要約を紹介することにした。

今回の目的は「これをキッカケにこの本に興味を持ち、興味を抱いたら実際に本を購入し(820円)、じっくりと精読して、今後仕事の糧としてもらいたい」ということである。

これからこの本の要約を紹介していきたいが、基本的に著者の文意を損なわないために、筆者が勝手に文章の書き換えるようなことはしないつもりである。その理由は文中の前後の関係を無視して筆者が文章を抜粋することになるのだから、著者が伝えたい文意とは違う解釈を筆者がすることになるかもしれないという恐れがあり、読者の方々は必ずこの本を購入して、FISH FOOD TIMESでの解説を鵜呑みにするのではなく、自分なりの解釈をしてほしいのである。

それではこれから、本の要約と解説に入っていこう。まず序章の魚食と魚職の項で以下のように記されている。

魚食は「食べる」という行為である。だが一般に「魚食」には魚を「探す」「買う」「料理する」などという行為が付随している。さらに丸魚などを買う場合は、処理や料理のあり方がいろいろあるので「教えてもらう」という行為も付随してくるといえる。ところがスーパーマーケットの鮮魚コーナーにおいては、そのようなやりとりが見られなくなっている。

昔は鮮魚店がスーパーマーケットの一角にあり、魚をめぐる会話はあったが、昨今ではそのようなスーパーマーケットは少ない。鮮魚コーナーには尾頭付きの丸魚がまれな存在になっている。鮮魚でもトレーパックに入れられた切身商材が多い。そうしないと売れないらしい。それらの商材は、刺身用、フライ用など、どうして食べたらよいのかちゃんとわかるように表示してある。便利である。聞かなくてよいし、魚を見て判断しなくてよい。
魚を食べ慣れていない人なら、何も表示されていないと、どうやって食べたらおいしいのか、わからないだろう。だから食べ方の表示は役に立つが、鮮魚店ならそれぞれの魚を見ながら、その魚の持ち味を楽しめる方法を提案できる。買う人も魚屋さんの提案を頼りにできる。

鮮魚店から発信されてきた魚食文化の背後には、その魚の固有の強みを伝える職能があった。それは鮮魚店の職能だけではなく、魚を獲るところから魚を食べるところまでに介在する職能すべてである。それらの職能がつながっていなければ私たちの魚食はなかった。

 

そこで濱田教授は、日本の魚食文化を育んだ職能を「魚職」と名付けている。

地域経済の核となり裏方として都市の繁栄を支えてきた水産物の産地市場と消費地市場はその魚職がそこに集結しているとしているが、問題を以下のように記している。

産地市場は産地の地域経済の核となり、消費地市場は地域経済だけでなく裏方として都市の繁栄を支えてきた。卸売市場がなければ産地の発展や都市の形成や拡大はあり得なかったと言ってよい。
その水産物卸売市場には「魚職」が大集結していて、産地の情報、消費地の情報も集積している。卸売市場は魚食の発信地。都市の魚食は卸売市場頼みであり、都市と魚の関係を語るのに卸売市場は外せない。ところが、消費が低迷しているのに加えて、物流の発展などにより市場外流通が拡大し、卸売市場の魚の取扱量は長期にわたり減り続けている。それにともない卸売市場のなかで業務をおこなってきた荷受や仲卸の廃業が統出している。

 

どうしてこのように縮小していったのか、その時代背景として、

日本の就業人口は、戦後直後は第1次産業部門が半分を占めていた。だが高度経済成長を通して、一次産業から二次産業へ、そして三次産業へとシフトした。そして、その過程のなかで都市に富が集中し、そのうえ経済の自由化国際化が推し進められたことで食料供給地を国内に限らず世界に求めるようになった。
1973年に円の対ドル為替レートが変動為替相場制になり、円高傾向が強まり、1985年にG5の金融担当首脳による円高誘導の協調が合意(プラザ合意)されるとさらに円高が進んだ。90年代にはまたさらに円高基調が強まって、海外の商品が買いやすくなった。
その間に日本は円の強みを生かして世界の食材を買いあさる国になり、人件費の安い途上国からの開発輸入が拡大し、価格破壊が進み、その受け皿となった量販店が急拡大。そのことによって青果、魚、肉といった生鮮食品専門小売店自営業者が駆逐されていった。大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄型社会になることが追求され続け、結果として職住が一体化した生業的な生産方式が主である日本漁業は、急激に改革できないため劣勢となる。そのうえ少子高齢人口減少時代に入る以前から食料需要は落ち込み続けていた。

 

こうして日本の生活者の、魚を食べようとする家計への支出(魚食)は減り続けている、としている。

魚食と魚職の再生への道筋を考えるためには、

「食」も「職」も選択は自由である。「魚食」や「魚職」が復権するには、人々が魚を好んで食べる状況をつくりだし、魚を取り扱う仕事が魅力ある仕事になるようにすることが課題となる。
しかし、その状況をつくりだすのは容易ではない。混迷する経済が回復し、安定したとしても、である。戦後から90年代中頃まで続いた家計所得が継続的に向上していくような時代が再来するとは思えない。たとえ経済成長が果たせたとしても、それは富を広く分配するものではなく、富を集中させるものになるからである。

しかし、失われた環境や条件を嘆いても仕方がない。魚食と魚職の復権のためには何が必要なのかを冷静に考えていかねばなるまい。そのために魚食と魚職の魅力と現伏を知り、グローバル経済のなかに埋没する食と職の哲学をまず深めていく必要がある。

 

序章では以上のように記されている。

食べる人たち

現在に至る食の変化を見ると、戦後から「腰弁族」と呼ばれたサラリーマン世帯が増加して核家族が増加したが、時代が進むと昼食の合理化が進んでコンビニでパンやおにぎりを買って済ませるようになり、更に食の合理化が進んで買い物量が減って、家族団らんの朝食や夕食ですら「孤食」(一人で食べる)や「個食」(世帯内でも別の食べ物を個別に食べる)が多くなってきた。その結果「食」は料理する人と食べる人をつなぐ行為であるはずなのに、その社会的な広がりが「食」から消えかけている、と著者は述べている。

食生活が変貌する中で最も顕著な現象は「食の外部化」と言われ、それは単身世帯だけではなく普通の世帯でも家庭外で料理されたものを食する傾向を強め、ファミリーレストランや回転寿司などは家族のための場だけではなく、家事労働の負担を軽減する場を提供しようとするものであり、「食の外部化」のビジネスターゲットは共働き世帯や単身世帯だけではなく、高齢者世帯にも広がっている、と記されている。

そんな中で魚の消費量は急速に落ち込んでいる。

高齢化社会では、歳を重ねると肉よりも魚を嗜好する「加齢効果」があると言われていたが、今やその理論は疑問とされてきており、個食化と食の外部化が急激に進み、家庭内にストックされる食材として生鮮食品が避けられ、冷凍食品や加工製品の割合が多くなった時代の中で、お頭のついた丸魚の消費量は伸びるはずがない、として以下のようにも分析されている。

都市生活者にとって魚は面倒な存在であるかもしれない。
丸魚で買うとウロコが飛び散るし、焼いたら煙はでるし、料理となると手間はかかるし、生ごみとなる残滓も出る。頭、ヒレ、エラ、皮、腸、骨である。家庭菜園レベルでも畑を持っていれば魚の残滓はコンポストでつくる堆肥の原料にでもなるのだが、都市住宅街では無理な話だ。都市部ほど「鮮魚の壁」は相当高くなっている。
さらに、魚種によるが流通する魚のなかに寄生虫、生カキにノロウィルスがごくまれに入り込んでいることもある。煮たり焼いたりすれば問題ないが、加熱用食材に比べれば生食でのリスクはある。魚食はどんどん便利になる時代だけに人から忌避されやすい要素を多く持っている。

 

このように魚食は人から忌避されやすい要素を多く持っているのだが、それでも魚食をしようとする人としては、例えば健康な食材として魚を選ぶ人、または魚の美味しさを知っていて高価な魚も好んで買う人もいるとして、

振り返ると、食品市場には、手軽で、便利で、安くて、最新の食品化学で開発された調理済みのレトルトや冷凍食品あるいはファストフードが溢れている。繰り返しになるが、やはり時間や手間、料理の習得に時間を要する魚食が廃れていくのも無理もない。
魚食を選択しない人が増えると鮮魚売場も縮小する。尾頭付きの魚がまれな存在になり、名ばかりの鮮魚売場が今やふつうの存在である。

もし、魚のおいしさの喜びがどのようなものかを知っていたとしたら、喜びにたどり着くために、時間をかけて、腕を磨いて「鮮魚の壁」を乗り越えようとするか、それができなければ、料理人に対価を払ってでも食べる、ということになる。
しかし「魚がおいしい」という喜びがどのようなものなのかを知らない、あるいは忘れている人にとっては、「鮮魚の壁」はずいぶんと烽「。その壁の向こうにどんな世界が広がっているのか、サッパリわからないのではないだろうか。

 

生活者に売る人たち

こうした中で日本では「魚食普及活動」が活発化していて、行政、漁業団体、卸売市場、水産関連団体が魚料理のイベントを各地で開催している。これは深刻な「魚離れ」を防ぐための活動であるが、結局水産物市場全体は先細りしている事実に変わりはなく「魚を食べる人」を減らさないようにするのが「魚職」の課題となっている。

魚の多くは天然資源であり、それらを食材として享受できるのは過酷な自然環境の中で食材を採取する人がいて、それを流通させている「魚職」が存在することも知って欲しいと記されている。

また魚は、季節や地域によって脂ののり方が異なる。そのため、同じ魚でも、季節や場所によって食べ方が異なる。旬の魚はもちろんおいしいが、季節はずれの魚でも食べ方しだいで美味しくなる。また高級魚でなくても、庶民的な魚をおいしく食べるレシピはいろいろと考えられている。
自分の希望の魚を、いつも買えるわけではない。しかしそれが自然ではないかと筆者は思う。毎日同じ魚を食べることなどない。あるときにはアジ、サバ、マイワシ、サンマなどの青物、あるときにはマグロ類やカツオ、あるときにはカレイ類やヒラメ、あるときにはマダイやブリ、カンパチ、時折、アサリやシジミなどの貝類も織り交ぜ、自然の恵みと向き合いながら、日々の変化があるほうが飽きずに楽しめる。
魚の種類は地方によって異なるし、日々変化に富んでいるのが魚食の世界である。肉とは違う。そうした変化を織り込んだ消費を繰り返すことによって「魚職」も維持される。

 

魚の資源動態を追っていくと、資源の増減は自然のことなので人間がコントロールできるものではなく、水揚げされる魚から食を考えざるを得ず、未利用魚の開発や既知の魚の新たな利用方法の開発は昔も今も行われているが、やはり魚を食べる人を増やすには「魚を売る人」にも期待したい、としている。

しかし今や市街地には鮮魚店の姿はほとんど見られず、魚食拡大は大型店の鮮魚テナントやスーパーの鮮魚売場に託すしかないようになってきていて、食育啓発協議会の2008年度の調査によると、子供を持つ親の77%がスーパーで魚介類を買うという調査結果が出ているらしい。

ところが、スーパーの鮮魚売場は1990年代以降に円高をテコにして輸入水産物の取り扱いが増加し、それらが鮮魚売場の主役のようになってきた事情を以下のように記している。

80年代までの輸入水産物の仕入れは、国産の不足分を補完するためと言われていた。しかし90年代以後のそれは、物流業界の発展もあり、大量ロット(大量生産・大量流通)供給が可能になった上、円高基調という為替環境が手伝って、仕入れ原価が抑えられたビジネスモデルとなった。価格訴求力を備えた輸入水産物は、スーパーマーケットの棚から国産水産物を押しのける存在となったのであった。しかもこれらの輸入水産物は、スーパーマーケットの鮮魚売場の定番品となった。ただし鮮魚売場にあってもそれは本当の鮮魚ではない。2000年代以後、地中海沿岸国やオーストラリアなどから空輸されてくる養殖クロマグロや養殖ミナミマグロの生鮮品が増えたが、それらを除けば、ほとんどが冷凍水産物であるか、解凍品である。日本で加工された商品もあれば、現地で加工された商品もある。・・・<中略>・・・こうした安さと安定した供給力のある輸入水産物に対して、価格乱高下する天然国産魚は取り扱いにくい。定番のマアジ、サンマなどの青物類や、マグロ類、そしてマダイやブリなどの養殖魚は季節の彩りを出すために販売されているが、その他の天然魚については、とても扱いづらいのでどうしても少なめとなる。

 

そしてスーパーは競争が激化する中で、コスト削減で収益力を発揮しようとして、人件費を抑制し、定番品を大量に販売して収益を高めようという傾向が強まり、仕入れ価格の抑制を大量仕入れによって実現しようとしてきたが、このビジネスモデルは水産物販売の促進になってはいかなかった。大量販売に向かずロスが出るような、あまり売れない水産物を棚に並べるわけにいかないので、棚には馴染みのある定番の水産物しか置かない傾向が強まり、結果として買い物客は魚を「食材」として探す楽しみをなくすことになっていることを、次のように述べている。

野菜とは違い、魚は料理の必需品ではなく、嗜好品的性格が強い。また肉や野菜は献立にあわせて買う対象であり、だいたいにおいて生活者は事前に買うものを決める。魚は売場に行ってから、買うかどうかが決められているケースが多い。
つまり鮮魚売場は、買い物客にとって魚との出会いの場でもある。それを演出できない鮮魚売場、しかも丸魚をほとんど見ることができない、名ばかりの鮮魚売場が、量販店が、乱立し集客競争が激化するなかで日本中に広がってしまった。こうして人と魚の出会いを演出できない鮮魚売場の形成は魚離れの原因ともなり、魚離れがより鮮魚売場を劣化させるという負のスパイラルが加速した。

 

また、90年代以降に急速に需要が萎んだ水産物消費部門として、修行を積んだ板前やシェフなどが営む料理屋、寿司屋、ホテルの高級レストランを取り上げていて、かつてこれらの店は接待で成り立っている側面があったが、90年代以降に官官接待や官民接待が問題となって支出縮減の対象となってからは勢いをなくし、板前やシェフの活躍の場としての活力がなくなり、日本の水産物の魚価形成力の一角が崩れて、水産物卸売市場や漁業経営の活力もそがれることになった、としている。

その一方で、昨今は地産地消ブームが強くなり、農水産物直売所が躍進していて、2013年には全国に247の漁協が直売所を所有し、年間1,358万人がここを利用しており、その勢いは現在も止まっていないようである。

また、総合スーパーの魚売場が苦戦する中でデパ地下の鮮魚専門店やローカルスーパーは全国各地で善戦をしている、特に新潟県を本拠とする角上魚類の販売方法は、鮮魚、丸魚だけではなく、加工品も含めて魚を食べたいという客層にしっかり対応していることで著者は注目をしているし、ローカルスーパーの代表としては愛知県豊橋市のサンヨネにも注目している。

全国各地には地域に密着し売上げを伸ばしているローカルスーパーがあり、水産物の販売も対面販売に力を入れるなどして売上げが伸びている企業があるが、必ずしもローカルスーパーの魚売場が大きく儲かっているというわけではない理由を以下のように記している。

そのやり方は現場対応であり「どんぶり勘定」でもある。マニュアル化できるようなものではない。儲かるやり方だとは言い切れない。それでも、鮮度感、活きのよさ、気風のよさ、情の厚さが溢れているから、小まめに買い物をする客とさまざまな魚が集まる。値入率が低くても、売れる回転が早く、売り切ることができれば利益は出続ける。
一般に加工品が多くなると、在庫もそれなりに確保するので品の仕入れ販売の回転が遅くなる。生鮮品は極力早く売り切るような仕入れ販売が基本となるので回転が早い。とくに鮮魚売場で丸魚の販売スぺースが広くなると、鮮魚販売の回転はより早まる。そうなると卸売市場にもブラスの刺激が与えられ、好循環が生まれる可能性がある。魚屋が激減した状況下で、都市部の多くのスーパーマーケットの鮮魚売場でこの状況をつくりだせれば、消費地の卸売市場だけでなく産地にも波及するであろう。

 

全国の中央卸売市場も地方卸売市場も、水産物の取り巻く環境は厳しく減退ムードが続いている。水産物だけではなく青果物も同様の傾向だが水産物は青果物以上の危機に直面している。末端の小売や外食の販売力の低迷が卸売市場の価格形成力の弱さに直結しているので、産地の出荷業者は卸売市場への出荷動機が弱まることになり、結果として卸売市場への商品経由率が低迷することになっている。

これらの中央卸売市場と地方卸売市場の実態を記されている「第3章 消費地で卸す人たち」については、FISH FOOD TIMES でのサイト対象者と目的からすると、この部分の解説については省略したいと思う。しかし次の第4章の「産地でさばく人たち」については簡単に触れておこう。

全国に825存在している産地市場は、主に生産者が出荷する市場であり、ここでも取扱量、金額が年々減っていて、全国にこれほど多くの産地市場が分散しているのは無駄だとの考えから、これまで統廃合が行われてきたし、この先もその計画はあるようである。

しかし一方で、産地市場は地域にとっては簡単になくすことのできない存在でもあり、漁業や魚の商工業などと一体化した地域の産業拠点であり、地域経済を支える存在でもある。その産地市場というのは、

海があって、魚という資源があって、そこに漁民がいて、魚を買う商人もそこにいて、生まれる経済、それを実現するのが産地市場。漁村にあって文化的にも経済的にも、シンボリックな存在。これは自然と魚職という生業が重なりあい、歴史を介して形成された「市場」であり、漁民を商業支配から守るための「市場」でもある。それがいま「肥大化したグローバル市場」に飲み込まれ、喘いでいる。

 

産地で加工される水産加工品は漁村の暮らしと密接な関係があり、水産加工業者にとってその製品開発は仕事の醍醐味でもあり、現代人の味覚にマッチさせるような食品が開発され供給されてきたが、伝統的な水産加工品の需要は縮小し続け、水産加工業も減り続けている。

水産業界の話になると漁業者数の現象ばかりが注目されるけれども、付加価値を生産してきた加工分野も同様の状況であり、商品寿命が短く常に新しい商品を開発していかなければならないので、ここでも一つの人気商品だけでは安泰できないのである。

近年は食の安心・安全が叫ばれるようになり、異物混入を防ぐための金属探知機や異物除去装置などの高い機械装置を導入しなければならないし、働き手の確保も年々困難になっていて取り巻く環境はどんどん悪化しているようだ。

漁る人たち

このように産地市場での環境悪化が進行しているが、その市場に魚を水揚げする漁師を取り巻く環境がどうなっているかについても、第5章「漁る人たち」の中で記されている。

著者が北海道の底建網の漁で漁船に乗船調査した時の体験、そして石川県の掛け廻し漁法の小型底引き網漁船に乗った経験などを踏まえて、遠洋や近海でのカツオ一本釣り漁に触れ、漁船の給料制度である「大仲・歩合・代分け給制」や、漁業経営の仕組みについても解説している。

船頭や船員は、命がけの漁をどれだけおこなっても、魚価が低く売上金額が低ければ、出漁意欲は減退し、漁は辛いだけの仕事になる。それでも、時折大漁があると船員は俄然やる気が出てくる。それが彼らのやりがい、海上での苛酷な労働をする動機である。
一方の船主は安定した会社経営をしていくために優秀な船頭、船員を雇うことが大切で、また優秀な船頭を定着させるには、最新鋭の技術を装備した漁船を準備しなければならない。沖合では漁船問で漁獲競争をするが、船主問では、船頭•船員の獲得競争があり、同時にそれは漁船や最新鋭技術への投資競争にもなる。
もともと、沖合遠洋漁業は投資先行型の産業だったうえに、高度経済成長以後、技術発展が著しかったことから、過剰投資に陥る構造が形成されたのであった。

いうまでもないが、会社経営では収支バランスを崩し、金融機関への返済が滞れば、船員や燃料供給者に支払いができず、廃業せざるを得なくなる。それゆえ1970年代からそうした漁業経営者は後を絶たなかった。70年代の二度のオイルショックが漁業経営を襲ったのである。

バブル経済の崩壊後、デフレ不況のなかで、とくに90年代後半からの輸入量の増大が、大きく国産の魚価を低迷させた。さらに、その頃金融危機を背景に金融機関への行政監督が強化され、貸し渋りと貸しはがしが横行する。そして2005年以後の燃油高騰。その間の減船(漁船が廃業•撒退すること)は著しかった。

 

そして母船式漁業は消滅し、北洋サケマス流し網の歴史は2015年に閉じられ、東シナ海の以西底引き網漁業、北洋の北洋転換底引き網漁業、南半球での遠洋イカ釣り漁業などは、以前の数百隻規模から数隻レベルにまで落ち込んでいるし、遠洋・近海マグロはえ縄漁船、遠洋カツオ一本釣り漁船、近海カツオ一本釣り漁船の数も激減しており、こうした沖合・遠洋漁船の減船数は1977年以降の30年間で6,000隻以上、実に約80%以上減っているとのことなのだ。

一方で養殖業についても触れ、養殖業は安定的で計画生産が可能と言われているが、実態は変動する気象、海の環境の中で、漁業者がどう作業するか、手間のかけ方、腕の差で成果は変わることを知って欲しいとしている。

海面を使った養殖業も、天然資源を獲る漁業も「公有水面」である海に生息する魚介藻類は「無主物」であり、それらに所有権はなく原則として自由に採取することができるが、これを自由に放置しておくと優良漁場での紛争が発生する恐れがあり、これを防ぐために漁業法がある。

漁業を管理する制度として、漁業権漁業、許可漁業、届出漁業、それ以外の漁業に分類され、管理する主体は農林水産大臣、都道府県知事、地区別漁業協同組合に区分され、水産業協同組合法、水産資源保護法、漁船法の基本的枠組みがありながら、その秩序形成を漁業者集団に委ねるという、行政庁による管理・監督と漁業者集団の自治による相互監視を組み合わせて、漁場利用の混乱を避ける二階建て方式にもなっている特徴がある、とのことだ。

それに伴って漁業者が漁場を壊さず持続的に漁業が再生産できるよう、資源と経営に対応した漁業行為の具体的方法は様々あるのだが、ここでそれについての説明は省いておきたいと思う。

著者は「漁業をする人は増えるのか」という項で、1961年当時70万人存在していた漁業就労者が2014年には17万人へと激減し、その就業者対策として大きな漁船だけではなく、水産加工場でも外国人技能実習生で人手不足を補っている事実を捉え先々を不安視している。

そんな中で、新たに漁業を始めたい人がいないわけではないとして、以下のように辛口の分析をしている。

新規に漁業をはじめたい人がいないわけではない。問題は新規に漁業をはじめても、乗り越えなくてはならない壁が高く、定着率が低いということだ。都市生活に疲れ、海で働くこと、漁師に憧れる人はいる。しかし漁業に就業してみると、漁業の仕事の厳しさに直面して、耐えきれないでやめていく人が多い。漁場利用のルール、探魚、操船技術、漁具操作、ロープワークなど、いろいろなことを身につけなくてはならない。天候や波浪の状況しだいでは、命がけの仕事になる。仕事は何事もすばやくこなせなくてはならない。ただおもしろいことに、仕事のやり方は十人十色であり、どうやら正解はないようだ。漁業は自然からの恵みを自然のなかで採取する生業であるが、一方で波浪、風浪、時化があったり、資源の来遊がなかったりと思い通りにはいかず、常に自然と対峙し、計画通り思い通りに実行できるものではない。海の状況、魚の回遊状況を見ながら仕事をするしかない。定時で働く仕事とは、まったくリズムが異なる。
そのうえ漁業者集団の人間関係が特殊である。この人間関係は助け合う関係でもあるが、互いに張り合って生きている関係でもある。みずから腕を磨く、技能を身につけようという意欲がなければ、集団から一漁業者として認められず見放されてしまう。
手続き的にも、漁業権行使に至るまでの道のりは厳しい。実際、漁協の組合員資格や漁業権行使規則にある条件では、多くの場合最低三年間は年間90日以上、地元で漁業を続けなければ入会集団の一員にはなれない。漁業後継者ならほとんどの場合、組合員資格を得ることかできるが、新規就業者となるとそうは簡単に得られない。
それゆえ、昨今漁業権行使規則で定められた条件などのような新規就業者から漁業者になるためのハードルを引き下げるべきだという、議論が出るようになった。が、結局は海上という厳しい就労環境のなかで、漁の技能を身につけない限り、また地元の自然、地元の漁業者の社会に馴染まない限り定着できない。
儲からないから若い人が漁業に就かないと、判を押したようなことを言う人がいるが、確かに生活ができないぐらい稼ぎがない仕事よりも、生活が成り立つ仕事があったら、誰だってそれを選ぶ。
しかし、漁業か儲かっていたら本当に漁業者が増えるのだろうか。例えば、高所得漁家世帯が多い北海道オホーツク地帯ですら、漁業就業者数も若い漁業者も減っているが、それをどう考えるのだろうか。
ノルウェーでは漁業が儲かるから若い人たちの人気の職業だという話もよく聞くが、政府統計で確認すると、漁業者の数は急激に減っている。他産業に労働力が流出しているらしく、漁業の現場はその空席を外国人労働者で補っているという。
情緒的な評価に基づく議論や分析的でない議論を続けても、堂々めぐりするだけである。経済のしくみ、人口動態、社会保障制度、当該国の職業の選択肢幅などいろいろな視点から冷静に考えれば現状がよく見えてくる。社会を取り巻く環境も含めず、またものごとの因果関係を踏まえずに、漁業就業問題を「漁業が儲からない」だけに収斂させるのは、そろそろ止めにしたほうがいいのではないか、と思う。

 

そして、漁業者の「漁労」という職能について、以下のように記している。

(漁業が)儲かるかどうかも一つの指標だろう。しかし、就業選択のための指標は多様化している。就業に優劣はなく、その魅力も相対的なものである。儲かっている仕事でもブラックな仕事環境には多くの人が耐えられない。儲かっていなくても、みずからの生業としてその仕事がぴったりならばこれを選ぶ人だっている。
問題は、自分が自分らしく生きていくために何を仕事にするかであり、仕事の何が生き甲斐や喜びに転化できるかであり、その職能を身につけるため、極めるために、日々の辛さを受け入れることができるかどうかなのである。
東日本大震災後、船を失って彷徨っている漁師が言っていた。海に出て漁をしていないと、辛い、ストレスが溜まる。漁をするという職能は、漁師そのものなのである。漁師は船に乗って漁仕事の腕を磨き、魚をたくさん獲り、あるいは養殖し、その生産物が市場のセリなどで評価を受けたときにボルテージが最高に達する。これがあるから、時化がひどくても海に出ることがある。これがあるから収穫期まで養殖作業をがんばることができる。そこには私たちには味わうことのできない、やり甲斐があるようだ。
こうした職能は尊敬されていた。職能を身につければ稼ぎもあつた。しかしデフレ不況のなかで、職能は買い叩かれるようになった。先行き不安のなかで、生活を維持するために、生活者の「魚食」は回避され、魚の相場形成力は明らかに弱まったのだ。こうして職能が軽視される時代になってから、命がけで漁をしている人への敬意の気持ちが社会的に薄らいでいる。
食物は自分たちの身体の一部になるにもかかわらずである。市場経済の悪戯にほかならない。
本来「漁労文化」があって「魚食文化」が生まれてきたはずなのだが、現代では多様な食材が創出されたことから、「魚食」は縮小し、「漁労」をさらに窮地に追い込んでいる。しかも、マーケットを介して「魚食」と「漁労」は切り離されている。
「漁労」という職能は「魚食」があって初めて機能する。

 

著者は「市場経済」が深まっていけば行くほど「職能」の扱われ方が「人として」ではなく「物のように」なり、経済の活力を落としてしまうのではないかという問題意識を持ち続け、組織内労働の現場に成果主義が広がったことで、職能の没個性化を進め、働く意欲を奪っているのではないか、そして労働に意欲がなくなると、経済の活力は取り戻せないのではないか、としている。

問題は市場経済をどう活用するかだとして、

市場経済は、新興分野が既存分野の市場を奪って成長する。それゆえに新興分野が拡大再生産する一方で、既存分野は縮小再生産のブロセスに入る。そして既存分野では利益率が落ち込むため、「無駄」を無くすためのあらゆる手立てが使われるようになる。そうなると既存の業界内では取引関係間でコスト節減や値引きの交渉、あるいは厳しい業務改善の交渉が始まり、結果として大なり小なり業界内に軋轢が生じてしまう。このような連鎖が容易に想定される。冷静に観察すると、市場経済の発展下の既存分野にはそのような現象が見えてくる。
魚食は、まさに既存分野であり、その市場は他の食品市場に奪われ、衰退していった。その縮小再生産のなかで、漁業者は産地市場の荷受に対して魚価が安いと、仲買人は産地市場の荷受に水揚げが足りないと、消費地市場の荷受に魚価が安いと、仲卸は消費地市場の荷受に対してすベて荷を上場せよと、小売は消費地市場の荷受に安くせよと、それぞれがそれぞれを牽制する声が大きくなつていった。
売場では効率主義が強まり「無駄」をなくそうとするエネルギーが費やされることになった。そのため効率主義との相性が悪い「魚職」ははじかれ、「販売店員のいない、魚の姿を見ることができない鮮魚売場」を目のあたりにするようになった。
その状況が蔓延した結果、気づいてみるといろいろな魚職分野で、魚を取り扱う「職能」にあった「誇り」がことごとく傷つけられていた。

 

誇りを傷つけられた水産業界が、魚食と魚職の復権にはどうすれば良いかとして、著者は「鮮魚の消費・販売の再生」を挙げている。

ここは本書の肝心要となる部分であり、今回FISH FOOD TIMESでこの本を紹介したいと思った核となる内容なので、少し長いけれども著者が記述されていることを、以下にそのまま紹介したい。

日本ほど鮮魚流通が発展した国はない。魚屋や板前あるいは生活者が高鮮度を求め続けた結果、鮮度を落とさない鮮魚流通のラィンが構築されてきたからだ。外国にはまねできない。
また人が群がる鮮魚売場には、必ずといってよいほど声を張り上げ、人を惹きつける「目利き」がいる。魚を知ってもらおうと必死だから個性がにじみ出る。販売店員の活きがよいと、魚の活きもよいように思えてくる。客は食べるために魚を買うのだが、鮮魚売場に足を運ぶとき、何かを期待してしまう。今日は何がおいてあるのか。そこに販売店員のプッシュである。勢いに負けてこれまで買ったことがない魚を思わず買ってしまう。対面販売は、客への押しの強さが大切なようだ。ブロの「目利きが消えた鮮魚売場には、販売店員の張り上げる「声」はなく、そこには活きの良さもない。
ただ、切身あるいは刺身となった商品がトレーパックに入れられて並べられているだけである。魚の料理法を教えようとビデオ映像を流している店もある。人手をかけずに売る、効率的に販売しようとした結果だ。こうした店にはチラシ特売で客を引きつけることはできても、鮮魚売場としての活気はない。
しかし現在でも活気のある鮮魚売場がないわけではない。ローカルスーパーマーケットや専門店の中には、業績を伸ばしているところもある。魚の消費が減っているとはいえ、もしその要因が「飽き」から生じる魚離れではなく、人と魚の出会いを演出してきた鮮魚売場が買い物空間から消滅してきたことであったとするならば、魚食にはまだ回復の余地がある。筆者の今のように、そのまちに潜在的魚買い物難民がたくさんいる可能性があるのだ。

となれば、今ある既存の鮮魚売場を活気づけるしかない。既存の鮮魚売場を活気づけるにはもちろん当該店舗責任者のやる気が必要だが、荷受、仲卸の「目利きの力」も必要だ。それゆえ政策のあり方として、消費市場の荷受や仲卸あるいは開設者である自治体が連携して、小売業界・小売店舗に対して「魚食」も「魚職」も再生させるように働きかけていく試みがあってもよいのではないか。食と職のための政策である。具体的には、荷受、仲卸が小売店舗に対して魚食を育てるリテールサポートを活性化させる、このことはもちろんのこと、卸売市場の取引を活性化させるために自治体もそのリテールサポートを政策的に支援することである。地元の生活者に魚食を働きかけるのも、自治体の役割であろう。地域の食と健康を支えるという卸売市場の存在意義を考えれば、開設者たる自治体の積極性が欠かせない。
次に鮮魚販売のあり方である。丸魚の鮮魚販売では、とにかく仕入れた魚の鮮度を保持して、適正な価格をつけて、棚の回転率を高めるのがベターである。生活者に鮮魚を美味しく食べてもらうには、できるかぎり調理方法を売場で伝えていくことが大切である。
切るなどの加工のタイミングは、食べる直前がよいと言われてきた。魚のうまさを最高の状況にしておくためである。包丁捌きが苦手な顧客に対しては、客の注文があってから小売店舗のバックヤードで加工するほうがよい。集客力のある鮮魚店に学べば、ともかく鮮魚加工は、産地や卸売市場内よりも、家庭内か店舗がよい。
「食べる」喜びに気づき、うまい魚を求める生活者をどう育てるか。そうした生活者が楽しめて、頼りにできる鮮魚売場をどうつくるかである。そのためには、売場に客が集まらないと始まらない。いろいろな魚を置き、対面販売や接客を実践することが重要である。これまで未利用魚だったもののなかで、安くておいしいものもある。定番の商品で販売棚を埋め尽くすような品ぞろえをするのではなく、水揚げされ、卸売市場に出回る、いろいろな魚を扱えばよい。これは特別なことではない。原点回帰のようなものである。
鮮魚販売が回復すれば、加工品、冷凍品、乾物にもその勢いが波及するだろう。活き活きとした売場が魚食を普及し、魚職を蘇らせる。流通の魚職が蘇れば、生産の魚職も蘇る。産地の流通加工業者も、漁業者も。漁業者は目まぐるしい海の変化に翻弄されながら、毎日が修業、毎日が実験のような日々を送っている。一方で、漁場利用にはライバルとの競争だけでなく対立や紛争もあり、さまざまな気苦労がつきまとう。それでも安心して漁を続けるには、漁業権、漁協や漁業調整機構を介して形成し、醸成した漁業者間の関係を壊してはならない。その関係がなければ、漁業者はより不安な状況のなかで操業をすることになるからである。
ただ一方で漁業者は魚を獲り、獲った魚を評価されることで、仕事の辛さを吹き飛ばす。評価をするのは産地の荷受、鮮魚出荷業者、水産加工業者である。彼らの目利きこそ、漁業者を育てる。
食は職が支えている。この事実こそが大切なのだ。

人が人を頼りにする、人が人を大切にする、人が人に敬意を払う、そして自然からの恵みをうまく回し、活用する。魚食にはこうした連鎖が大切なのである。
資本主義経済である以上、経済成長のために生産性を向上させようという力が働く。これは資本主義の性であり、致し方がない。しかし効率化に囚われすぎて、支えあうという本来の「強み」がそぎ落とされた日本は豊かと言えるのであろうか。

筆者は魚食と魚職にこそ、日本経済を豊かにするヒントがあると思う。だから「魚食」も「魚職」も朽ちさせてはならない。各地で盛んにおこなわれているすばらしい「魚食普及」を「魚食普及」で終わらせず、「魚職不朽」につなげて欲しい。そして、小さくてもいいから、食と職の経済を育てて欲しい。

 

以上が「魚と日本人」に記されている内容の抜粋である。

非常に説得力のある内容が記述され、そして具体的に提案されていると感じる。特に「対面販売の重要性」に着目している点は大いに納得するところである。

今月号はいつもとは違って、画像がなく文章ばかりなので読者の方々が最後まで読んでくれたかどうか不安である。こういう手法での表現はもちろん初めてのことなのだが、水産業界のことをこの本では生産という観点だけではなく末端小売レベルのことまで含めて、これほど見事に分析した名著は過去に読んだことはなく、読者の皆さんにそのポイントを要約して伝えたいとの思いからこの形になったのである。

もちろん、これは単なる要約でしかないのだから、少しでも興味が湧いたなら直ぐに本屋さんへ直行して購入してほしいし、同じ濱田武士教授が著しておられる「日本漁業の真実」(ちくま新書)も同時に購入されることをお勧めする。

2017年の年頭にあたって、皆さん方が属しておられる水産関係各処において、これから先の魚に関係する仕事のことを少し深く考えてみるには、この本は絶好の機会を与えてくれるのではないかと思われる。

この本に触れることが一つの契機となって、2017年の日本の水産業界が何か良い方向へ少しでもつながつていってくれればと思うものである。


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更新日時 平成29年 1月1日